いい加減、ホンマそろそろここで日記書くの止めなあかんと思いつつ、当ホームページのコミュニティが設立された旨を諸君に伝えるために記述する。面倒くさければ、この冒頭の情報だけしか読まんでよろしい。
しかし、参加の面々を閲覧するにつけ、どこか見知った人物ばかりであり、私の監視の外で私を罵倒したいという向きはあまりいないようだ。崖の上で腕を組み、マフラーを風にたなびかせながら、「お前なんざとはマイミク登録しねえぜ! だが、最近のお前は間違っているッ! お前のホームページに注文があるッ!」とあさっての方向を指差しながら宣言する気骨の士は現れなかったようである。愛情と憎悪はベクトルを変えた同じ力という例の言葉を持ち出すまでもなく、当然の帰結とは言えるかも知れぬ。「敷居が高い」ことをよく言われるが、同じ表現を複数のファンから頂いたことを考えてもきっとそうなのだろうが、敷居を下げようとすると「下げないで!」と必ず駆け込んでくる向きがおり、私はそのたびいつも、脱ぐことをなぜか客に止められる職業ストリッパーのような気分になる。それこそ放っておけば、日々の雑記などを始めかねないと諸君は恐れているのだろうが、そこのところの線引きは理解しているつもりである。コミュニティ設立がこの不毛な、汚れたパンティをつかみあっての脱ぐ脱がぬのやりとりに決着をつけてくれればと期待する。
全くの余談である。簡易記述式の日記などからネット参入された方などには理解しにくいかも知れないが、かつて、現実世界の人格と電脳世界での人格は「乖離していなければならない」ものだった。現実が充実していなければしていないほど、ネット上での記述は狂騒的に面白くなっていくのであり、ついうっかり現実で満たされたりすればネット上の記述はたちまち色を失うのであった。日常に起伏を失えば、夢が活性化するのと同じ理屈である。つまり、現実とネットの人格が一致してしまうということは足すも引くもないゼロ地点にいるということで、最も避けねばならぬ事態と言えた。内定を得た会社に本名で猥褻な電話をかけたり、懸想する女子の眼前で大便をひねりだしたりといった愉快な記述は、どこからも内定を得ぬ無職だったり、誰からも求められぬ恋愛不倶者である現実を内包するからこそ輝きを放つのであり、当時のホームページ運営者たちは厳然たる暗黙の了解として皆が、「いかに何も無い、つまらない日常を送るか?」に腐心したものだった。しかし、それでは社会的に存在することが不可能になってゆくため、一人また一人と脱落を余儀なくされていき、最後はほとんどチキンレースのような様相を呈していたことを私は懐かしく思い出す。なので、「私という個性の不変」を標榜しているような現在の簡易記述式の日記を閲覧するにつけ、どうにも座りが悪くてしょうがない。現実とネットの人格が完全に一致しているその人物の記述する、昼飯の紹介や読書の感想を読むにつけ、いったいどこにそれをわざわざ文字にするだけのパワーが秘められているのかと、不思議に感じるのである。
私には、日々全力で外界と関わりながら一方で、その心を誰よりも引きこもらせ、自閉させているという自負がある。本物の引きこもりが記述している妄想ではないという点が、上記の過去のホームページ群の在りように反しており、際立って素晴らしいのであるということに諸君は気づき、もっと積極的にそこへ言及して私を褒め称えるといい。そして、今後しばらくは記述を終えるつもりである。